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2007年06月23日

バビロン第1王朝時代

こんにちは!

日本の歴史、世界の歴史、地球の歴史などについて

自分の勉強も兼ねて、

日記風に書いていこうと思います。

今日もほんとにあついですね。

梅雨とは思えない天気ですね!天気がよいと気持ちが良いです!

今回は、メソポタミアの[バビロン第1王朝時代]です。

▼ここから

[イシン・ラルサ、バビロン第1王朝時代]ウル第3王朝の崩壊後は、南部メソポタミアではアムル人

を中核とする小国家ができ始めた(イシン・ラルサ時代)。イシュビエラが創始した中部バビロニアの

イシン王朝は、ウル第3王朝の政治理念を踏襲しました。たとえば〈リピトイシュタル法典〉は、

前代の〈ウルナンム法典〉を継承したものです。一方、南部のラルサは、シュメール地方に覇権

を樹立し、ディヤラ川流域ではエシュヌンナが勢威を振るいました。またユーフラテス中流域では

マリが交易中継地として繁栄し、マリからは前18世紀ジムリリム時代の文書が多数発見されています。

バビロニアに北接する地域では、アッシリア人の都市アッシュールが前19世紀から前18世紀にかけて

のシャムシアダド1世時代に繁栄しました。

アッシリア人は早くからメソポタミアと小アジア間の通商を行い、カイセリ付近のキュルテペ(カニシュ)

などには商業植民地を建設しています。バビロン第1王朝第6代王ハンムラピは、前18世紀中葉に南部

メソポタミアの小国が分立している時代に終止符を打ちました(古バビロニア王国)。ラルサはリムシン

時代にイシンを併合し、中・南部バビロニアを支配していましたが、ハンムラピはマリと同盟するなどして

国力を強め、ついにラルサを破り、メソポタミア南部を統一しました。治世晩年に成立した〈ハンムラピ

法典〉は、シュメール法とアムル慣習法の融合を示しています。次王サムスイルナのとき諸市が反乱を起こし

し、反乱鎮圧直後に諸市は経済混乱に見舞われ、ウル、ラルサ、ニップールなどは放棄されました。

また当時、南方には〈海国 Sealand〉が存在しました。以後王朝は北部バビロニアを基盤とするが、

カッシート人(カッシート)などの圧力に苦慮し、前16世紀初頭ヒッタイトの攻撃を受けて滅亡ししました。

 イシン・ラルサ時代からバビロン第1王朝時代にかけては各種の粘土板文書が多く残っており、統治体制、

司法制度、商業、土地制度、尼僧制などに関して、みるべき多くの研究成果があります。

⇒バビロン第1王朝[カッシート人、フルリ人、ミタンニ王国] 西イランにいたカッシート人は

サムスイルナ時代に南メソポタミアに現れましたが、その言語はまだわかっていません。バビロン第1王朝の

崩壊後カッシート人は前12世紀中葉までバビロニアを支配しました。その際アッカド語を公用語として採用

しています。前14世紀には首都としてドゥル・クリガルズを建設しました。



カッシート支配下の南部諸都市は衰弱し、出土文書もきわめて少なくなっています。

 前3千年紀末にはフルリ人が北西メソポタミアに現れ、ウル第3王朝は盛んに対フルリ戦争を企てました。

彼らの言語の詳細は不明となっています。なお前1千年紀のウラルトゥはフルリ人の後裔による国家です。

バビロン第1王朝の頃よりフルリ人は北部メソポタミア、東部アナトリア、シリア海岸地方に勢力を拡

大しました。前16世紀中葉、この地域にミタンニ王国が成立し、前14世紀中葉まで存続するが、人口の

大部分はフルリ人であったと思われます。ただしインド・アーリヤ人が支配階級を形成し、彼らを通じて

馬、戦車がヒッタイトに伝えられました。ミタンニはエジプト王家とも婚姻関係をもちましたが、ヒッタ

イトの攻撃を受けて滅亡しました。



▲ここまで

本日は、これで終わりとさせていただきます。

次回からは、メソポタミア文明のアッシリア時代について書きたいと思います。
posted by freework at 11:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月10日

メソポタミア文明シュメールアッカド時代02

こんにちは!

日本の歴史、世界の歴史、地球の歴史などについて

自分の勉強も兼ねて、

日記風に書いていこうと思います。

今日は、不安定な天気ですね。

関東地方は、午前中は雷雨となりましたが、

午後は、はれているようだけど大気が安定していないので

いつ、雨が降ってもおかしくない天気だそうです。

出かけるときは、折りたたみ傘を持っていった方が良いですかね!

だんだん、雨の季節が近づいていますね!

今回は、メソポタミアの[シュメール・アッカド時代]の後半です。

▼ここから

初期王朝期 III 期にはいるとシュメール政治史がかなり明らかになる。またウルの〈王墓〉

は当時の都市支配者の富を示します。おそらく前26世紀末にラガシュではウルナンシェが現

れ、王朝を樹立したと思われます。王朝の5支配者に続いて3支配者が多くの政治的碑文を残

してい増す。最後のウルカギナ(ウルイニムギナ)はウンマのルガルザゲシに敗北しました。

ルガルザゲシはウルク王になるとともに他都市をも軍事占領し、ここにシュメール都市国家

時代が終わるが、のちルガルザゲシはセム系アッカドのサルゴンに敗れました(前24世紀中葉)。

キシュ王の高官であったサルゴンは、のち独立してアッカド王朝を樹立した。首都アガデの

位置はいまだ不明です。サルゴンはシュメール地方を征服しただけでなく、東方エラム地方、

ユーフラテス中流域のマリ、さらにはレバノンにまで軍事遠征を行い、最初の帝王として古代

西アジアで長く記憶され続けています。またこれ以後セム人がメソポタミア最南部地方にも広

く住みました。第4代王ナラムシンはさらに多くの外征を企て、王朝版図は最大となったが、

南部都市を核とする大反乱が発生、また東方蛮族グティ人も王朝内に侵入を開始しました。

次王ののち王朝はグティ人侵入により混乱に陥りますが、南部シュメール地方は比較的平和で

あり、とりわけラガシュは繁栄を享受していました。 前22世紀後半,ウルクのウトゥヘガル

がグティ人を駆逐し、さらに彼の子(ないし兄弟)ウルナンムがウルで独立して、ここにシュメ

ール人の統一王朝が成立しました(ウル第3王朝)。2代王シュルギのとき王朝は最盛となります。

治世後半には王は神格化されました。度量衡も統一され、王朝各地での経済活動は活発であっ

た。ニップール近郊には王朝内外からの無数の貢献家畜を点検する施設プズリシュ・ダガンも

建設されました。5代王イビシン時代までには西方セム系アムル人(アモリ人)の圧力が強まり

ます。イビシンの高官アムル系のイシュビエラはイシンで独立するとともに、各地を軍事占領

しました。またエラムの脅威もあって、前2004年ウル第3王朝は崩壊し、シュメール人は民族的

実体を失う。最古の粘土板文書(ウルク出土)が神殿ないし王宮の財産管理記録であったことに

示唆されるように、シュメール人は多くの行政・経済文書を残しました。なお現存のシュメール

文学テキストの多くは、ウル第3王朝崩壊後に書かれたものである。また、楔形文字による粘土

板記録は早くからメソポタミア各地に普及しました。たとえばシュルッパク(現名ファラ)および

アブー・サラビクの文書(前26世紀?)は、シリアの〈エブラ文書〉に酷似しており、ユーフラテス

川による濃密な文化交流を示します。シュメール都市を神殿組織の複合体とみなす古典学説

は、初期王朝期 III 期の〈ラガシュ文書〉研究の結果成立したものですが、その普遍妥当性は

疑わしいとされています。またギルス(ラガシュ)、ウンマ、ニップール、プズリシュ・ダガン、

ウルから無数のウル第3王朝時代文書が出土しています。

▲ここまで

本日は、これで終わりとさせていただきます。

次回からは、メソポタミア文明のバビロン王朝について書いていきたいと思います。
posted by freework at 17:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月02日

メソポタミア文明-シュメールアッカド時代01

こんにちは!

日本の歴史、世界の歴史、地球の歴史などについて

自分の勉強も兼ねて、

日記風に書いていこうと思います。

今日もほんとにあついですね。

今日は6月最初の週末ですね。天気がよいと気持ちが良いですね!

今回は、メソポタミアの[シュメール・アッカド時代]です。

▼ここから

[シュメール・アッカド時代] 前4千年紀中葉のウルク期には、シュメール北部にも多く

の村落遺跡が発見され」、ウルク期前半にすでにニップール、アダブなどがほぼ都市的規

模の面積に達していました。後期には南部のウルクが大発展を遂げ、巨大な神殿などが相

次いで成立し、ウルク最末期には最古のシュメール語粘土書板も現れています。これ以後、

前24世紀中葉までメソポタミア最南部でシュメール都市国家時代が続きます。なおシュメ

ール語は膠着語系に属し、周辺諸言語とは類縁関係をもたないので、シュメール人の起源

については最終的な解答は得られていません。またウルク期のシュメール文化はユーフラ

テス流域に急速に伝播し、シリア地方にもウルク期神殿を含む遺跡が見いだされています。

粘土板による記録法は次のジャムダット・ナスル期末(ジャムダット・ナスル文化)までにウ

ルク以外の都市にも普及しました。これ以後キリスト紀元ころまで粘土板は西アジア各地

で記録書板として広く用いられ続けています。 前3千年紀初頭の初期王朝期 I 期には、

シュメールに北接する地域(のちのアッカド地方)に位置するキシュが勢威を有していました。

伝承によれば、キシュは〈大洪水〉後に最初に全土の覇権を握っている(キシュ第1王朝)。

キシュには早くからセム人が定住し、シリア、ユーフラテス中流域へのシュメール文化伝播

に大きな役割を果たしたようです。のちの叙事詩によれば、キシュ第1王朝の最後の王アッ

ガはウルクのギルガメシュに敗北しました。これはキシュの後、ウルクに支配権が移行した

(ウルク第1王朝)とする他伝承と矛盾しない。一連のシュメール叙事詩においてウルク支配者

の功業が語り伝えられています。とりわけ《ギルガメシュ叙事詩》はアッカド語、,ヒッタイ

ト語、フルリ語にまで書き移され、古代西アジア文学中の最大の作品となった。ギルガメシュ

は初期王朝期 I 期ないし II 期に実在したと思われますが、この時期のウルク周辺では多く

の小村落が姿を消すとともに、ウルク自体の規模も大膨張しました。初めて城壁も建設されて

おり、シュメール地方での軍事的緊張が高まっていたことが示唆されます。


▲ここまで

本日は、これで終わりとさせていただきます。

次回からは、メソポタミア文明のメソポタミアの[シュメール・アッカド時代]の後半について

書きたいと思います。
posted by freework at 16:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする