日本の歴史、世界の歴史、地球の歴史などについて
自分の勉強も兼ねて、
日記風に書いていこうと思います。
今日もほんとにあついですね。
梅雨とは思えない天気ですね!天気がよいと気持ちが良いです!
今回は、メソポタミアの[バビロン第1王朝時代]です。
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[イシン・ラルサ、バビロン第1王朝時代]ウル第3王朝の崩壊後は、南部メソポタミアではアムル人
を中核とする小国家ができ始めた(イシン・ラルサ時代)。イシュビエラが創始した中部バビロニアの
イシン王朝は、ウル第3王朝の政治理念を踏襲しました。たとえば〈リピトイシュタル法典〉は、
前代の〈ウルナンム法典〉を継承したものです。一方、南部のラルサは、シュメール地方に覇権
を樹立し、ディヤラ川流域ではエシュヌンナが勢威を振るいました。またユーフラテス中流域では
マリが交易中継地として繁栄し、マリからは前18世紀ジムリリム時代の文書が多数発見されています。
バビロニアに北接する地域では、アッシリア人の都市アッシュールが前19世紀から前18世紀にかけて
のシャムシアダド1世時代に繁栄しました。
アッシリア人は早くからメソポタミアと小アジア間の通商を行い、カイセリ付近のキュルテペ(カニシュ)
などには商業植民地を建設しています。バビロン第1王朝第6代王ハンムラピは、前18世紀中葉に南部
メソポタミアの小国が分立している時代に終止符を打ちました(古バビロニア王国)。ラルサはリムシン
時代にイシンを併合し、中・南部バビロニアを支配していましたが、ハンムラピはマリと同盟するなどして
国力を強め、ついにラルサを破り、メソポタミア南部を統一しました。治世晩年に成立した〈ハンムラピ
法典〉は、シュメール法とアムル慣習法の融合を示しています。次王サムスイルナのとき諸市が反乱を起こし
し、反乱鎮圧直後に諸市は経済混乱に見舞われ、ウル、ラルサ、ニップールなどは放棄されました。
また当時、南方には〈海国 Sealand〉が存在しました。以後王朝は北部バビロニアを基盤とするが、
カッシート人(カッシート)などの圧力に苦慮し、前16世紀初頭ヒッタイトの攻撃を受けて滅亡ししました。
イシン・ラルサ時代からバビロン第1王朝時代にかけては各種の粘土板文書が多く残っており、統治体制、
司法制度、商業、土地制度、尼僧制などに関して、みるべき多くの研究成果があります。
⇒バビロン第1王朝[カッシート人、フルリ人、ミタンニ王国] 西イランにいたカッシート人は
サムスイルナ時代に南メソポタミアに現れましたが、その言語はまだわかっていません。バビロン第1王朝の
崩壊後カッシート人は前12世紀中葉までバビロニアを支配しました。その際アッカド語を公用語として採用
しています。前14世紀には首都としてドゥル・クリガルズを建設しました。
カッシート支配下の南部諸都市は衰弱し、出土文書もきわめて少なくなっています。
前3千年紀末にはフルリ人が北西メソポタミアに現れ、ウル第3王朝は盛んに対フルリ戦争を企てました。
彼らの言語の詳細は不明となっています。なお前1千年紀のウラルトゥはフルリ人の後裔による国家です。
バビロン第1王朝の頃よりフルリ人は北部メソポタミア、東部アナトリア、シリア海岸地方に勢力を拡
大しました。前16世紀中葉、この地域にミタンニ王国が成立し、前14世紀中葉まで存続するが、人口の
大部分はフルリ人であったと思われます。ただしインド・アーリヤ人が支配階級を形成し、彼らを通じて
馬、戦車がヒッタイトに伝えられました。ミタンニはエジプト王家とも婚姻関係をもちましたが、ヒッタ
イトの攻撃を受けて滅亡しました。
▲ここまで
本日は、これで終わりとさせていただきます。
次回からは、メソポタミア文明のアッシリア時代について書きたいと思います。
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